シンガーソングライターのみならず、俳優、ラジオDJ、写真家等その活動は多岐にわたる福山雅治(ふくやま まさはる)さん。
結婚もされ子供も生まれ父親になりましたが、福山雅治さんの父親はいったいどんな方だったんでしょうか?
また、どんな子供時代を過ごされたんでしょうか?
今回はそんな、福山雅治さんの子ども時代と父親について調査してみました!
福山雅治の子ども時代!音楽は中学から
福山雅治さんは、1969年2月6日に長崎県で産まれました。
両親と一つ上のお兄さんと暮らし、決して裕福とは言えない暮らしでした。
父親は定職にも就かずに麻雀ばかり。
母親がパートで働いたお金のみで生活していたようです。
なので家系は火の車!
その母親が稼いだお金も、父親の博打やお酒代になって消えていったのだとか。
父親は家にほとんど帰ってくることはなく、帰ってくると大声で喚き散らす。
そんな感じの家庭だったので、父親と遊んだり家族旅行の思い出がないようです。
音楽はお兄さんの影響。
「吹奏楽部に入ってくれたら、 新しく増築される部屋をあげるから」
とお兄さんから言われ、中学1年生の頃からギターを始めます。
中学2年生の時には友人とバンド「不死鳥(フェニックス)」を結成し、中学卒業式の前日に体育館で初ライブ!
お兄さんとも「Lar」というバンドもしていたのだとか。
父親が亡くなる。死因は?
福山雅治さんが高校2年生のとき父親が病気で亡くなったそうです。
どうやらがん闘病していたそうです。
詳しいところまではわかりませんでした。
ただ、ご両親は2人とも長崎で戦争中に被爆されているそうなので、もしかしたら被爆の影響があったのかもしれません。
福山雅治さんは、博打うちの父親をあまり憎んではいないそうです。
ただ、その当時を振り返った時に家族は好きじゃなかったといっていたことがあったので、割り切れないようなこともあったのではないのでしょうか。
父親は被爆したことで、日に日に自分の体が変化してしまうことを恐れていたそうで、
そんな現実から逃れるために麻雀やお酒におぼれるのも仕方のないこと考えていたのだとか。
父親の葬式では麻雀仲間の人が多く参列。
泣いてくれた参列者もいたそうです。
支えにしていた父親の一言
実は福山雅治さんには下積み時代を支えてくれた父親の言葉があるそうです。
それは福山雅治さんの子供時代。
父親から買い物を頼まれたのですが、近所の店には父親の好きなブランドが売っていませんでした。
そこで、当時の福山雅治さんはわざわざ遠くまで探しに行きました。
帰るのが遅くなってしまい母親には怒られましたが、父親は探しに行ったことを褒めてくれたそうです。
そして、コイツは根性だけはあると言われたのだとか。
福山雅治さんが父親に褒められたのは後にも先にもその時だけで、その一言を支えに頑張っていたそう。
父親に対していろいろな思いもあったでしょうが、やはりなんだかんだで父親に対して特別な思いもあったのではないでしょうか?
そして、そんな父親に向けでの想いが込められている歌があります。
その歌は「誕生日には真白な百合を」。
「自分の誕生日に毎年母親に花を贈っているというエピソードや亡くなった父親に対する想いを歌った内容になっている」
というそうで、この言葉や父親のエピソードを聞いてからこの曲を聴くとまた違った歌に聞こえます。
なので機会があれば、「誕生日には真白な百合を」を聴いてみてくださいね。
まとめ
- 母親が家計を支えていてあまり裕福ではなかった
- 音楽を始めたのはお兄さんの影響で中学から
- 高校2年生のとき父親が病気で亡くなる。ガンで詳しい病名は不明
- 母親と父親について歌った曲が「誕生日には真白な百合を」
以上、「福山雅治の父親の死因は?子供の頃に音楽を始めた」でした。